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3750年前のCX - 顧客の声が生んだ最古のレビュー
「あなたは私が注文した上質な銅ではなく、質の悪い銅を送ってきました。約束した日に届けなかった上に、私の使者を門前払いにして無礼に扱いました。もう二度とあなたとは取引しません」
紀元前1750年、古代バビロニアの商人エアナーシルに宛てられた一枚の粘土板が、現在のイラク・ウル遺跡から発見されました。差出人はナンニという名の顧客です。楔形文字で刻まれたその内容は、まるでECサイトのレビュー欄を見ているような錯覚に陥ります。
この3750年前の声は、現代の星1つレビューと本質的に何も変わりません。信頼への裏切り、品質への失望、約束の軽視、そして何より人間としての尊厳への配慮の欠如に対する怒りが込められています。ナンニが真に求めていたのは、単なる銅という金属ではありませんでした。それは誠実な人間関係そのものだったのです。
考えてみてください。スマートフォンもインターネットもない時代に、一人の顧客が粘土板というメディアに苦情を刻み込んだのです。その背景には、商取引における信頼関係がいかに重要だったかが物語られています。この粘土板は単なる苦情ではなく、人間の普遍的な欲求を示す貴重な証言です。
この苦情は、技術がどれほど進歩しても、人間の本質的な欲求が3750年間変わっていないことを教えてくれます。テクノロジーは進化し、商品は複雑になり、サービスは多様化しましたが、人が求める「信頼できる関係」「約束の履行」「人間としての尊重」という根本的な価値は、時代を超えて変わりません。
近代CXの祖:松下幸之助とドラッカー
工業革命以降、「良いものを作れば売れる」という製品中心の思考が支配的になります。大量生産・大量消費の時代において、顧客は個人ではなく「消費者」という匿名の存在になっていました。ナンニが商人エアナーシルに求めた「人間としての尊重」は、効率性と標準化の前に忘れ去られていたのです。
この人間からの逸脱に対して、人間に焦点を当て直し、現代CXの理論的基盤を築いたのは、現場を知り抜いた経営の実践者たちでした。その代表格が松下幸之助とピーター・ドラッカーです。
1932年、松下幸之助が熱海の旅館で着想した「水道哲学」という思想は、単なる大量生産を超えた、価値の民主化そのものでした。「水道の水のように、良質で豊富で安価なものを提供し、すべての人が豊かな生活を送れるようにしたい」。この願いの背景には、自身が貧しい家庭に生まれ、9歳で丁稚奉公に出された体験がありました。豊かさがごく一部の人だけのものではなく、すべての人がアクセスできるものにしたいという強い想いが、後の松下電器の経営哲学となりました。
1954年、経営学の父と呼ばれるピーター・ドラッカーは『現代の経営』で革命的な一文を記しました。「企業の目的は顧客の創造である」。これは、それまでの「製品から始める」発想から「顧客から始める」発想への根本的転換でした。ドラッカーは、企業は利益を生み出すために存在するのではなく、顧客の未充足ニーズを発見し、それを満たす新しい価値を創造するために存在すると考えたのです。
彼らは、工業化の恩恵を活かしながら、ナンニの時代から続く「人間を大切にする」という普遍的価値を経営の中心に置こうとしたといえます。
この人間からの逸脱に対して、人間に焦点を当て直し、現代CXの理論的基盤を築いたのは、現場を知り抜いた経営の実践者たちでした。その代表格が松下幸之助とピーター・ドラッカーです。
1932年、松下幸之助が熱海の旅館で着想した「水道哲学」という思想は、単なる大量生産を超えた、価値の民主化そのものでした。「水道の水のように、良質で豊富で安価なものを提供し、すべての人が豊かな生活を送れるようにしたい」。この願いの背景には、自身が貧しい家庭に生まれ、9歳で丁稚奉公に出された体験がありました。豊かさがごく一部の人だけのものではなく、すべての人がアクセスできるものにしたいという強い想いが、後の松下電器の経営哲学となりました。
1954年、経営学の父と呼ばれるピーター・ドラッカーは『現代の経営』で革命的な一文を記しました。「企業の目的は顧客の創造である」。これは、それまでの「製品から始める」発想から「顧客から始める」発想への根本的転換でした。ドラッカーは、企業は利益を生み出すために存在するのではなく、顧客の未充足ニーズを発見し、それを満たす新しい価値を創造するために存在すると考えたのです。
彼らは、工業化の恩恵を活かしながら、ナンニの時代から続く「人間を大切にする」という普遍的価値を経営の中心に置こうとしたといえます。
情報技術の進化:CSからCRM、そしてCXへ
CSからCRM、そしてCXへ
1980年代から1990年代は、情報技術の進展と市場の成熟化により、企業の競争環境が大きく変化していきます。この時代はまだ基本的には「製品から始める」発想が支配的でしたが、競争のポイントは「大量に生産し、大量に流通させること」から「情報を駆使して勝ち筋を見つけること」にシフトしました。従来の表面的な顧客満足(CS)では、この新しい競争環境に対応できなくなっていました。
CSの限界
1980年代まで主流だった「顧客満足度調査」は、基本的に「事後的な測定」です。製品やサービスを提供した後に満足度を測定し、改善点を見つけます。しかし、この手法では急速に変化する市場環境に対応できません。そこで登場したのがCRM(Customer Relationship Management)です。CRMは単なる満足度測定を超えて、顧客との長期的な関係性を戦略的に管理する概念です。データベース技術の発達により、個々の顧客の購買履歴、嗜好、行動パターンを詳細に把握し、それに基づいて関係性を構築することが可能になったのです。
ペパーズのCXへの予見
この時期、ドン・ペパーズとマーサ・ロジャーズは単なるデータ管理を超えた洞察を示しました。彼らが提唱した「1to1マーケティング」は、マス・マーケティングから個別最適化への転換を予言するものでした。「すべての顧客を同じように扱うのではなく、一人ひとりの顧客を理解し、個別にカスタマイズされた体験を提供する」。ペパーズは既にこの時期から、データや関係性の管理だけでなく、「顧客が企業との接点で感じる体験そのもの」の重要性を指摘していました。これは古代商人の「顔の見える関係」の現代版であり、CRMからCXへの転換を予見する先駆的な洞察でした。
パラダイムシフトと体験価値
1980年代から1990年代は、情報技術の進展と市場の成熟化により、企業の競争環境が大きく変化していきます。この時代はまだ基本的には「製品から始める」発想が支配的でしたが、競争のポイントは「大量に生産し、大量に流通させること」から「情報を駆使して勝ち筋を見つけること」にシフトしました。従来の表面的な顧客満足(CS)では、この新しい競争環境に対応できなくなっていました。
CSの限界
1980年代まで主流だった「顧客満足度調査」は、基本的に「事後的な測定」です。製品やサービスを提供した後に満足度を測定し、改善点を見つけます。しかし、この手法では急速に変化する市場環境に対応できません。そこで登場したのがCRM(Customer Relationship Management)です。CRMは単なる満足度測定を超えて、顧客との長期的な関係性を戦略的に管理する概念です。データベース技術の発達により、個々の顧客の購買履歴、嗜好、行動パターンを詳細に把握し、それに基づいて関係性を構築することが可能になったのです。
ペパーズのCXへの予見
この時期、ドン・ペパーズとマーサ・ロジャーズは単なるデータ管理を超えた洞察を示しました。彼らが提唱した「1to1マーケティング」は、マス・マーケティングから個別最適化への転換を予言するものでした。「すべての顧客を同じように扱うのではなく、一人ひとりの顧客を理解し、個別にカスタマイズされた体験を提供する」。ペパーズは既にこの時期から、データや関係性の管理だけでなく、「顧客が企業との接点で感じる体験そのもの」の重要性を指摘していました。これは古代商人の「顔の見える関係」の現代版であり、CRMからCXへの転換を予見する先駆的な洞察でした。
パラダイムシフトと体験価値
デジタル化が促したパラダイムシフト
1990年代後半から2000年代にかけて、インターネットの普及とデジタル技術の発達が、企業と顧客の関係を根本的に変化させました。松下・ドラッカーが提唱した人間中心の経営思想、そしてペパーズが予見した「一人ひとりの顧客との関係性」が実現する環境が整ったのです。
顧客のデジタル化という新たな制約
それまでは企業が「何を、いつ、どのように提供するか」を決定し、顧客はそれを受け入れるという一方向的な関係でした。しかし、デジタル化により顧客は情報にアクセスし、比較検討し、意見を発信できるようになります。これは企業にとって新たな制約でした。もはや企業は一方的に価値を押し付けることはできず、顧客の声に耳を傾け、顧客起点で価値を創造することが求められるようになったのです。
この変化の背景には、以下のようなデジタル化の進展がありました。
・インターネットによる情報の民主化→企業の情報優位性の喪失
・Eコマースの普及による選択肢の拡大→顧客の選択権の拡大
・ソーシャルメディアの登場による顧客の発言力向上→企業への監視機能の強化
・データベース技術の発達による個別対応の可能性拡大→画一的サービスへの期待値低下
制約から生まれた発想:体験価値の発見
「顧客の力の増大」という制約に直面した企業は、従来の「製品から始める」発想では勝負できなくなりました。それに呼応するように生まれたのが「体験価値」という概念です。
経験経済
1998年、ジョセフ・パインとジェームス・ギルモアは『経験経済』で経済の進化を4段階で説明しました。農業経済(コモディティ)から工業経済(製品)、サービス経済を経て、経験経済へ。彼らは「顧客が求めるのはもはや『もの』でも『サービス』でもなく、『体験』そのものだ」と喝破しました。
この理論の画期的な点は、体験を独立した経済価値として位置づけたことです。ディズニーランドでは、乗り物(製品)やサービスではなく、「魔法の体験」そのものに対価を支払っています。スターバックスでは、コーヒー(製品)や接客(サービス)以上に、「第三の場所」としての体験に価値を見出しています。
経験価値マーケティング
1999年、コロンビア大学のバーンド・シュミットは『経験価値マーケティング』で、体験をより詳細に分析するフレームワークを提示しました。彼は体験を5つのモジュール(感覚・感情・思考・行動・関係性)で分類し、これらを戦略的に組み合わせることで、顧客に強い印象を与える体験を設計できると主張しました。
無意識的手がかりによる体験デザイン
2004年、ルー・カーボーンは『Clued In』で顧客体験の本質に迫り、体験を構成する「手がかり(Clue)」の役割を解き明かしました。表面化しづらい「無意識の印象」が、どのように顧客の感情や記憶に影響を与え、顧客ロイヤルティやブランド価値を左右するかを詳細に明らかにしました。
この時期の理論発展を支えたのが、心理学や脳科学の急速な進歩です。ハーバードビジネススクールのジェラルド・ザルトマンの研究により、人間の意思決定のほとんどは無意識レベルで起きることが解き明かされました。体験設計において、論理的な説明や機能的な価値だけでなく、感情的・直感的要素の重要性を科学的に裏付ける発見でした。これらの科学的知見により、CXは経験則に頼る職人技から、科学的根拠に基づく専門領域へと発展していきます。
CX経営理論の確立
実践的対応から始まったCXの取り組みは、2000年代に入ると学術的な理論体系として確立されていきます。現場での実践を研究者たちが体系化し、CXを経営学の正統な領域として位置づけていきました。
サービスドミナントロジック
2004年、マーケティング理論に革命的な転換が起こりました。ロバート・ルッシュとスティーブン・バーゴが提唱したサービスドミナントロジック(SDL)は、従来のグッズドミナントロジック(製品中心の論理)から、サービス中心の論理への根本的なパラダイムシフトを示しました。
SDLの核心は「価値共創」の概念です。従来は企業が製品に価値を埋め込み、顧客がそれを消費するという一方向的な関係でしたが、SDLでは企業と顧客が共に価値を創造するという双方向的な関係を提唱しました。顧客は単なる価値の受け手ではなく、価値創造のパートナーなのです。
この理論転換により、CXは「企業が提供する体験」から「企業と顧客が共に創り上げる体験」へと概念が拡張されました。これは後のCX理論発展の重要な基盤となり、現代の「顧客との共創」「コミュニティとの共創」といった概念の源流となっています。
ハーバード・ビジネス・レビューによるCXの定義
2007年、ハーバード・ビジネス・レビューの論文で、クリストファー・マイヤーとアンドレ・シュヴァーガーは、CXを次のように定義しました。
「顧客体験とは、企業との直接的または間接的な接触に対する、顧客の内的で主観的な反応である」
出所:Harvard Business Review, February 2007, Vol. 85, Issue 2
https://hbr.org/archive-toc/BR0702
この定義により、CXが単なる顧客満足度調査や品質管理を超えた、独立した専門領域として位置づけられることになりました。
CX経営理論の確立
2012年、フォレスター・リサーチのハーレー・マニングとケリー・ボディンは、『Outside In』において、CX経営の理論的基盤を確立しました。彼らは「顧客から始まる経営」(Outside In)のアプローチを提唱し、従来の「企業内部から始まる経営」(Inside Out)からの根本的転換を促しました。CXを単なるマーケティング手法ではなく、経営戦略の中核に据えるべきだと主張し、具体的な組織変革の手法と測定指標を提示しています。この著作により、CXが経営の主要な概念として確立され、企業がCXによる経営変革に取り組むきっかけとなりました。
ドーナツ経済とサーキュラーCXの誕生
地球の限界という新たな制約
同時期、経営の世界に重要な転換点が訪れます。それは地球環境問題という避けて通れない現実との直面です。気候変動、資源枯渇、生物多様性の喪失。これらの問題は、従来の成長至上主義的な経営手法に新たな制約をもたらすものでした。
2012年、オックスフォード大学のケイト・ラワースが発表した「ドーナツ経済学」は、経営者たちに重要な示唆を与えました。この理論は、経済活動が地球の生態学的限界(環境的天井)を超えず、かつ人間の基本的ニーズ(社会的基盤)を満たす範囲で行われるべきだという枠組みを提示したのです。
経営者たちは、単純な利益追求や市場シェア拡大だけではなく、持続可能性という新たな制約の中でビジネスモデルを再構築する必要性に気づき始めました。これは「経済成長すれば社会は豊かになる」という考え方に根本的な見直しを迫るものです。
この理論は、CXにも根本的な問いを投げかけています。
「顧客満足のために地球を破壊していいのか?」
「短期的な顧客の欲求と長期的な人類の生存、どちらを優先すべきか?」
サーキュラーCXの誕生
制約は創造の母でもあります。この新たな制約が、従来の発想を超えた革新的なCXを生み出し始めたのです。地球環境という制約に直面した企業の中から、従来のCXの概念を根本的に見直す動きが生まれます。それが「サーキュラーCX」です。
パタゴニア:Worn Wearプログラム
アウトドア用品のパタゴニアは2017年、「新しい服を買わないでください」という衝撃的なメッセージを発信しました。同社のWorn Wearプログラムは、修理・再生・再販を通じて、消費そのものを体験に変換する革新的な取り組みです。顧客は新品を購入する代わりに、修理技術を学んだり、中古品に新しい物語を与えたり、環境保護活動に参加したりという体験を得ます。
この取り組みの背景には、同社創業者イヴォン・シュイナードの「地球が私たちの唯一の株主だ」という哲学があります。短期的な売上減少よりも、長期的な地球環境の保護を優先する—この姿勢が、顧客との深いつながりと強いブランドロイヤルティを生み出しています。
https://wornwear.patagonia.com/
IKEA:循環型マーケットプレイス
スウェーデンの家具大手IKEAは、使わなくなった家具を買い取り、修理・リノベーションして再販する循環型マーケットプレイスを展開しています。顧客は「家具を捨てる罪悪感」から解放され、代わりに「循環型社会に参加する誇り」を得ることができます。さらに、DIYでのリノベーション体験も提供し、顧客が家具に新たな価値を付加する創造的なプロセス自体を楽しめるようになっています。
https://www.ikea.com/jp/ja/circular/second-hand/
これらの事例は、制約が生む創造的CXの典型例です。環境制約という制限が、従来の「もっと作って、もっと売る」発想から「より良く使って、より長く愛する」発想への転換を促し、結果的により深く、より意味のある顧客関係を生み出したのです。
テクノロジーがもたらす人間性の制約
地球環境の制約と同時期に、もう一つの重要な制約がCXを直撃しています。それはデジタル技術の急速な進歩がもたらす「人間性の希薄化」という制約です。
アルゴリズムが生んだ新しい檻
2010年代半ば以降、AI技術により顧客一人ひとりに最適化された体験の提供が可能になりました。しかし、この技術的進歩は皮肉な結果をもたらしました。
NetflixやSpotifyのレコメンデーションシステムは満足度を向上させる一方で、ユーザーを「好みの檻」に閉じ込め、新しい発見や予期しない出会いを排除してしまいます。これは3750年前のナンニが求めていた「豊かな人間関係」とは正反対の方向です。アルゴリズムは効率的ですが、人間の成長に不可欠な「出会い」を奪ってしまったのです。
プラットフォーム経済と関係性の商品化
Amazon、Google、Facebookの台頭により、企業と顧客の関係が根本的に変化しました。プラットフォームは便利さを提供する一方で、顧客の行動データを収集し、関係性そのものを商品化しました。ハーバード大学のショシャナ・ズボフが提唱した「監視資本主義」では、顧客は個人として尊重される存在ではなく、収益化可能なデータの供給源として扱われています。これもナンニが求めた「人間としての尊重」とは正反対です。
効率性と人間性のトレードオフ
AIによる自動化は効率性を実現しましたが、「人間的な温かさ」を奪いました。皮肉なことに、デジタル技術に最も慣れ親しんだZ世代が、最も深刻な孤独感を抱えています。便利で効率的なデジタル体験が増える一方で、人間同士の深いつながりは減少しているのです。
地球環境と人間性、二重の制約
地球環境の制約と人間性希薄化の制約は、同じ根を持っています。どちらも「量的拡大」「効率性の追求」「短期的利益の優先」という工業化時代の発想が生み出した問題です。環境問題が「地球の限界」を示したように、デジタル化は「人間関係の限界」を示しました。無制限の成長、無制限の効率化、無制限の個別化。これらすべてが持続不可能であることは明らかです。
この二重の制約は、CXに根本的な問いを投げかけています。「本当に価値あるものは何か?」「技術は人間を幸せにしているのか?」「効率性と人間性は両立できるのか?」
ナンニの粘土板が示すように、人間の根本的欲求は3750年間変わっていません。CXは、環境制約と人間性制約の両方を創造的に乗り越える、全く新しいアプローチを必要としています。
東洋哲学の邂逅 :絶対矛盾的自己同一と両立思考
西田幾多郎の洞察
20世紀初頭に日本の哲学者西田幾多郎が提示した思想が、21世紀のCXに新たな光を当てています。西田の哲学は、西洋の二元論的思考とは異なる、東洋独特の統合的思考を体系化したものでした。
絶対矛盾的自己同一
「絶対矛盾的自己同一」とは、対立するものが対立したまま、互いに依存しながら統一されている状態を意味します。現代のCXが直面する矛盾──効率性と人間性、環境配慮と利便性、デジタルとアナログの温もり、これらは解消されるべき課題ではなく、CXという『場』に内在する不可分な構成要素です。
西田によれば、矛盾を超えて統一されるのではなく、矛盾したまま「自己」が自己であり得る場のあり方こそが、本質的な生命性を支えるのです。「Aでありながら非Aである」。この非論理的に見える統一が、環境制約と人間性制約の両方を乗り越えるための指針になるのではないか、ということです。
両立思考(パラドキシカル・リーダーシップ)
まるで西田の思想に呼応するように、現代の経営学では「パラドックス理論」が注目されています。2011年、ハーバード・ビジネス・スクールのウェンディ・スミスとマリアンヌ・ルイスは「パラドキシカル・リーダーシップ」理論を発表しました。従来の「択一思考」(Either/Or)から「両立思考」(Both/And)への転換を提唱したのです。
彼女たちが提示したABCDシステムによるパラドックス・マネジメントは、実践的な指針を提供しています。
Accept(受容):矛盾の存在を否定せず、自然な現象として受け入れる
Build(構築):対話と実験を通じて、創造的な新しい解決策を構築する
Confront(直面):矛盾から逃げずに正面から向き合い、その本質を理解する
Differentiate(差別化):時間的・空間的・文脈的な差別化により解決策を見出す
例えば、スターバックスは標準化(世界中どこでも同じ品質のコーヒー)と個別化(各地域特有のメニューや文化的配慮)を見事に両立させています。これは単なる妥協ではなく、西田の「絶対矛盾的自己同一」の実現と言えるでしょう。
意識の革命:変容経済と自己超越
パイン&ギルモアの変容経済
ジョセフ・パインとジェームス・ギルモアは、『経験経済』の中で、経験の次の段階があることを示唆しています。顧客自身が変容することに価値を見出す段階です。これは一時的な体験ではなく、顧客の人生そのものを変える持続的な変化を提供することを意味します。
RIZAPは、この段階をうまく捉えています。顧客が求めているのは単なるトレーニングジムのサービスではありません。それは「理想の自分になる」「人生を変える」という根本的な自己変容そのものです。RIZAPは体験を超える価値として、顧客自身の変容を約束し、実際にそれを実現するシステムを構築しています。結果として、顧客は新しい自信、新しい習慣、新しい人生観を獲得します。
マズローの隠された第6段階
アブラハム・マズローは変容の方向性を示しました。多くの人がマズローの欲求階層説は「自己実現」で頂点に達すると理解しています。しかし、晩年のマズローは人間の欲求にはさらに高次の段階があると考えていました。
自己超越:個を超えた価値への志向
マズローが最晩年に到達した洞察は、自己実現を超えて、他者や社会、さらには宇宙全体の利益を考慮する段階の存在でした。この段階に達した人々は、個人的な成功や満足を超えて、より大きな目的や意味を求めるようになります。従来のCXは個人的な満足の最大化を目指していましたが、顧客の中には個人的満足を超えて、「より良い世界への貢献」「人類全体への価値提供」「地球環境の改善」といった超越的価値を求める人々が現れるようになるのです。
コトラーのマーケティング進化論
フィリップ・コトラーはマーケティングの進化を1.0(製品中心)、2.0(顧客中心)、3.0(価値中心)、4.0(デジタル)と整理しました。特にマーケティング3.0の「価値中心」は、マズローの自己超越段階と深く共鳴しています。顧客が求めるのは個人的利益だけでなく、より大きな社会的価値や意味です。これは、CXが単なる顧客満足を超えて、より大きな社会的価値創造へと向かう道筋を裏付けるものでした。
制約×変容×超越:三つの共鳴
現代のCXは、三つの強力な力が響き合う地点で新たな方向性を見出そうとしています。地球環境という現実的制約、人間の根本的変容への欲求、そして個を超えた価値への精神的志向。これら三つの力が同時に作用するとき、従来のCXの枠組みを完全に超えた新しい価値創造の可能性が開かれます。興味深いことに、地球環境の制約に直面することで、人々は自動的に個人的利益を超えた視点を持つようになります。「自分だけ良ければいい」という発想から、「みんなで持続可能な未来を作ろう」という発想への転換が起こるのです。そして、この転換は個人変容と地球再生の同時実現への道を開きます。環境に配慮した生活を送ることで個人が成長し、個人の成長が環境保護につながるという、相乗効果のループが生まれます。
人間性中心の時代へ
HCD創始者による理論の拡張
マズロー、コトラーと同様の変容の方向性を示した三人目の巨匠が、人間中心デザイン(HCD)の創始者ドナルド・ノーマンです。2023年、彼は、人間中心デザインから人間性中心デザインへの拡張を提唱しました。
「人間性中心デザインは人間中心デザインの原則の上に構築されますが、それらを拡張します。私たちはすべての生きものと環境について考えなければなりません。私たちは複雑なシステムの一部であることを理解し、ここで行うことが世界中の人々に影響を与え、長期的な効果をもたらす可能性があることを認識しなければなりません。」このように、従来の人間中心デザインを基盤としながら、全体的なシステムへの影響まで考慮する必要性を示したのです。
出所:Author Talks: Don Norman designs a better world
https://www.mckinsey.com/featured-insights/mckinsey-on-books/author-talks-don-norman-designs-a-better-world
デザインの民主化
ノーマンが提唱するこのデザイン哲学の核心は、2000年代初頭にリズ・サンダースが提唱した「design for → design with → design by」にあります。
Design for:専門家が顧客のためにデザインする(従来のアプローチ)
Design with:専門家と顧客が協力してデザインする(参加型デザイン)
Design by:コミュニティが自らの手でデザインする(自律型デザイン)
この進化において最も重要なのは、専門家が設計したものを受動的に消費するのではなく、ユーザー自身が能動的に価値を創造していくという考え方です。そして、完璧な解決策を最初から求めるのではなく、失敗を祝福し、試行錯誤を通じて学び合い、改善し続けるプロセス自体に価値を見出しながら、互いに助け合う文化を醸成していきます。
CXは「人間の進化」に貢献できるか? 3750年後への贈り物
3750年が問いかける根本的な問い
この壮大な時間の旅の終わりに立って、私たちは一つの根本的な問いに直面しています。CXは単なる経営手法を超えて、人間そのものの進化に貢献できるのでしょうか?私たちは、CXを通じて意識(個人的満足から人類全体への配慮)、関係性(競争から協力)、創造性(制約を活かした価値創造)を進化させることができるのでしょうか?
5つのデザイン指針
これまで見てきたCXの歴史から、CXが「人間の進化」に貢献するために、5つのデザイン指針を導き出すことができます。
1.個人価値と社会価値が一致する領域で価値を提供する
2.制約を「できない理由」ではなく「創造性の触媒」として捉える
3.対立する要素を「どちらか」ではなく「どちらも」実現する第三の道を探す
4.顧客が「この関わりを通じてより良い人間になれる」と感じられる体験を提供する
5.個人の変化が波及効果を生み、コミュニティ全体の進化を促す仕組みを作る
3750年後の人類への贈り物
3750年前、ナンニが粘土板に刻んだ苦情は、単なる商取引の不満ではありませんでした。それは「より良い人間関係を築きたい」「互いを尊重し合う社会を作りたい」という、人類の根源的な願いだったのです。CXは、その願いに応える力を持っています。技術の進化を超えて、私たち一人ひとりの意識が変わることで、CXは人類の進化に貢献することができます。日々の顧客との接点で「より良い人間への変化」を促すことができます。CXの未来は、売上向上の手段を越えて、社会と個人がともにより良く生きるための共創的営みへと進化しようとしています。ナンニが粘土板に託した想いは、現代の私たちを通じて、さらに3750年先の未来へと受け継がれていきます。
参考文献
A.H.マスロー(1973)『人間性の最高価値』上田吉一訳 誠信書房
ウェンディ・スミス&マリアンヌ・ルイス(2023)『両立思考』関口倫紀・落合文四郎・中村俊介 監訳、二木夢子 訳 日本能率協会マネジメントセンター
ケイト・ラワース(2018)『ドーナツ経済学が世界を救う』 黒輪篤嗣訳 河出書房新社
ショシャナ・ズボフ(2021)『監視資本主義 人類の未来を賭けた闘い』 野中香方子訳 東洋経済新報社
ドン・ペパーズ&マーサ・ロジャース(1995)『ONEtoONEマーケティング: 顧客リレーションシップ戦略』ベルシステム24訳 ダイヤモンド社
バーンド・H. シュミット(2000)『経験価値マーケティング: 消費者が何かを感じるプラスαの魅力』嶋村和恵 ・広瀬盛一訳ダイヤモンド社
B.J.パイン&J.H.ギルモア(2005)『[新訳]経験経済』岡本慶一・小高尚子訳 ダイヤモンド社
フィリップ・コトラー&ヘルマワン・カルタジャヤ&イワン・セティアワン (2010)『コトラーのマーケティング3.0 ソーシャル・メディア時代の新法則』恩藏直人監訳、藤井清美訳 朝日新聞出版
松下幸之助(1978)『実践経営哲学』PHP研究所
西田幾多郎(1979)『善の研究』岩波文庫
Carbone, L. P. (2004). Clued in: How to keep customers coming back again and again. FT Press.
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