WOWのコミュニケーションが素晴らしいのは、なぜだろう?
「伝える作法」のセッションの後半は、見ることから表現することまで、さらに深く入っていきます。ビジュアルデザインの本質に迫り、そこから伝えることの核心も触れる、まさに珠玉のクリエイティブクラスです。
認知ということで視覚についてお話ししたい。目をハードウェア的に捉えると諸説あるが、35ミリのライカ判で50ミリレンズ。1000万色を見分けられる。700万画素で色認識していると言われています。色認識は意外と少ない。ただし、明暗では1億2000万画素というCMOSセンサーを持っているということです。目をハードウェアとして捉えると、かなり高度なものだとわかります。
皆さん、大きな視野を持っていて、この空間の全体を一気に捉えています。非常に巨大なエリアを高解像度で捉えています。
もう1つ、知覚の80%は視覚に頼っている、という実験例があります。視覚から得られる情報は、ほかの知覚から得られる情報より多い。見たものを信じてしまう傾向が多いし、見たものによって、知覚、認識が大部分、左右されてしまうことにもなります。
中心視野の解像度が高い
このように非常にすぐれたハードウェアを持っていて、知覚の大部分を占めている高性能な目ですが、実は、そんなに性能は高くないと最近、私は気づいたのです。
お手持ちの紙に、AとBと2つの×と記号が書いてあると思いますが、一番好きな食べ物を、Aの下に書いてください。次にBの下に2番目に好きな食べ物を書いてください。だいたいアルファベットと同じくらいの大きさで書いてください。
書いていただいたら両手を伸ばしてA、Bを見てください。Aの文字に焦点を合わせてBを読んでください。近距離なのにBが読めないですよね。Aの3cm、4cmくらいまでしか焦点が合っていない。二兎を追う者は一兎をも得ずという体験なのですが、実は、皆さんの視覚は非常に小さいスポットでしか焦点が合っていない。手のひらを伸ばした先の10円玉ぐらいです。
なおかつ、目は自動的に振動していてパッチワークのように視野を作っています。サッケードという微振動によって素材を集めています。
コピペしながら巨大な幻影を作っています。目というセンサーを通した後に、幻影が作られて、初めて認識されています。しかも、サッケードでは1秒間に5回動いているのですが、動いている瞬間に映像がぶれるので、その瞬間、脳は映像を遮断します。暗くして動いて、また足しています。ということは、1日90分間は何も見ていない状況がある。何も見ていない状況をあたかも無視するように、幻影を作って脳の中で時間をつないでいます。
すなわち、見えるというのは、脳が合成した幻影を認識することになります。おそらく今、見えている状況は、全員がちょっと異なる状況で見えている可能性があるのではないか。脳の在り方、認識の在り方によって、ビジュアルは同じようには捉えられない。その捉えられないところに対して、我々はビジュアルを提供しているという意識が必要だと思います。
さきほどの立川談志の言葉・・・良い誤解、悪い誤解に近いのですが、コミュニケーションは伝わらないことを前提に作っていかないと、うまくいかない。
その一例として、光が上にあるという脳の前提があります。上が明るくて下が暗いと、少し盛り上がっているように見える。でも、実際は盛り上がりはありません。それを逆にすればへこんで見えますが、実際にはへこんではいません。
ここに影が付いているので、ちょっと上に出ているように見えます。でも上には出ていない。これは脳みそが勘違いしていて、光が上にあるという前提によって創り出されている幻影です。
トリックアートはすべてこれを利用しているのですが、とくに影が重要です。影は絶対に無視できない存在として人間にメッセージします。
影をテーマにして作品を創ったことがあります。これは「テンジブル」という作品で、タンジブルという単語のスペルミスではなくて、ちょっと、モチーフにしてしゃれを効かしたものです。
これは単純な理屈の作品で、後ろからCG映像を投影している紙のところに、グラスや水槽を置いたものです。本物のグラスがあって、そこにCGで作ったニセモノのグラスと、いるはずのない人を合わせてみた。そうすると、何が本物で何がニセ物かわからなくなります。
この作品は非常にシンプルかつ設置も簡単なので、WOWの中で一番、世界で展示されるようになりました。とても簡単ですが、どこの国の人でも何が本当かわからなくなって、表と裏を確認したりして、ずっと釘付けになっているという作品です。単に映像だけだったら、単に影だけだったら見ないのだけど、そこに本物と偽物がまざっていることから、認識のボーダーラインが試されます。私は目で触る作品と呼んでいます。
インタラクティブというのは手で触って動かすだけではなくて、目で触って脳の中で遊ぶ作品もあります。それを狙ったのがこのテンジブルという作品です。
ファンタジアというのはブルーノ・ムナーリの言葉です。彼は、今、世の中に存在していないものすべてを総称してファンタジアと呼ぼうと言いました。ファンタジアを考えるときに、役に立つのか、という議論があります。プロジェクトを進めるときに、それって儲かるの、と言われたときに、儲かる、儲からないという価値基準は大きいと思います。私たちも規模は小さいが、それがどんなメリットを生み出すか、生み出さないかを意識して作ります。
これはたまに反転するときがあったりして、何が本当に役に立って、何が本当に役に立たないか、ということが相対的だといつも思います。表現の世界だと、流行廃りが多いですし、こないだまで、もて囃されていた表現が突然役に立たなくなることがあります。
ハサミは紙を切るときには有用だけど、線を引くときにはあまり役に立たない。どちらかというと無用である。有用か無用か判断できないときにノーとするのか、進んでいくのか。私たち表現者は、やはり無用でも進んでいこうというチャレンジ精神を持っています。伝えるというときも、この無用のものは、もしかしたら役に立つかもしれない、という意識で取り組んでいます。
たとえば、これらはある製品に対するメディアのコメントです。
・大失敗の製品がでた
・成功できる見込みがない商品だろう
・大きなシェアを占める可能性はゼロである
このような酷評がメディアにでました。この商品は何かというとiPhone。有用か無用かは、そのときはわからない。それまでになかったものがでてきたときに評価が難しいことがある。
実は、調べると電話もそうでした。直接話せばよいのに、なぜ機械を使ってインチキくさいコミュニケーションをとらなければならないのか、という評価があった。ですから、革新的な価値というのは評価できない。
今、プロダクトの実例をだしたが表現もそうです。伝えるための表現も既成概念だけでやると、どこかで見た表現だね、で終わってしまう。ですので、革新的な表現、伝達方法というのを常々考えていかないとマンネリ化した表現にとどまってしまいます。
既成概念を壊すというのはすごく難しい。皆さん、お手元にプリントがあると思います。子ども向けの『考える練習をしよう』という本に書かれている問題です。皆さんにやってほしい。
9個の点があります。そこに4本の直線を一筆で描いて9個すべての点を通りなさい、という問題です。ヒントは、自分を閉じ込めないと書いてあります。私もやりました。1本目、2本目、3本目、4本目とやると1個の点を通れないです。この問題では、フォーマットの既成概念にとらわれてしまって、4本の直線が必ずキュードットの中に入らなければならない、と考えてしまった。でも、一旦はみでて直線を書くと全部通れるようになります。
私たちは、あるフォーマットの中で考えてしまう。あるフォーマットの中で表現してしまって、こういうものだよな、という思い込みの中で答を出してしまう。ですから、こんな簡単な問題でさえ、自分を自分の中に閉じ込めてしまっています。もっと自由に、もっと柔軟に問題を捉えて、それが果たして問題なのかというところまで疑ってかかることが重要だと思います。
常にフォーマットを疑ってかかることを表現でもやっています。役に立つ立たないというのは、そのフォーマットの中での話です。新しいフォーマットや、そのフォーマットの外側から見ると有用無用は変わってくる。表現も創造も役に立つ立たないという議論の外側で何か作らないとドキドキするようなものはなかなか作れないと感じている。だから、その外側に足を一歩踏み出している状態をいつも作れることが重要だと感じています。
これに関する2つの好きな言葉があります。1つはマーシャル・マクルーハンの言葉です。
「誰が水を発見したのかわからないが魚ではないだろう」。
フォーマットを発見するためには、そのフォーマットの外にでなければ、それを俯瞰してみることができない。さらに、ブルーノ・ムナーリの言葉です。
「これまでに存在しないものすべてをファンタジアと呼ぶ」
これまでに存在しないものすべてを、これから自分たちが作っていくというふうに考える。フォーマットの中に則ったものだけを作っていくと考えてしまうと、どうしても表現が狭くなるし、伝達するものも非常にありきたりのものに止まってしまう。
どんどんルーチン化してしまうと、自分たちが本当に作りたかったものが何か、というのを忘れてしまう。本当は好きなはずでデザインの世界に入ったのに、早く休みがこないかな、などと思ってしまう。本当はやりたかったはずなのに、いつのまにか一番やりたくないことに変化してしまったりすることがあるわけです。
それを打破するために、今までにないものを作ろうという意識でオリジナルワークを作ったりします。もっともモチベーションがあがるのは、作ったのを誰かが見たり使ったりして、そこに感動が起きているのを見ることです。たとえば、これはYouTubeにアップされていた映像ですが、WOWが作った映像を子どもが見ているところを、親が撮影しています。
子どもが、テレビの映像(WOWが制作したBRAVIAのプロモーション映像)を見ながら笑っている。WOW!と言って喜んでいる。
これはソニーのBRAVIAのグローバルのプロモーションに作った映像です。作った先で何が起きているかを見る機会が必要です。作ったものがこんな感動を生み出しているということが、やる気を倍増させます。
ファンタジアが最終的に何を生むかというと、こういった驚きや感動を生み出します。自分が作ったもので人が感動したり喜んだりするのを見るのは素敵なことです。早くデザインをやめて休みたい、などと思わなくなります。
無用と有用というのにどうしてもとらわれてしまうので、それははずしていかなくてはいけない。実は有用なものはたくさんあります。たとえば、砂漠というのは負の遺産で役に立たないものだと思っていたが、実はサハラ砂漠の砂が風にのって南米に降り注いでいる。砂漠の砂は大量のミネラルを含んでいて、それが、アマゾンの多様な生物を支えている。
短絡的に役に立つ立たないという議論でいってしまうと、本当に社会を変えているもの、本当に素晴らしいものを見落としてしまう、ということを表現者として強く認識し、また考えているところです。
伝えるときには柔軟な発想でファンタジア・・・新しいものを生み出さないといけない。そうしないと関心のない人たちを振り向かせることができません。これだけ情報があふれている状況で何らかの方法で関心を持ってもらうためには、革新的な方法を見いだす必要がある。そのときに、もっとも私たちがやらなければならない技術的なことは、表現すること。表現という言葉は面白くて、2つの「あらわれる」という言葉が使われています。表のほうは表出させることでビジュアライゼーション。現というのは、心の中にそれを存在させる、心の中に発生させることだと私はとらえている。
2つの「あらわれる」が重なることで本当の表現になるので、中身のない表面だけではダメだし、表面が今いちで中身だけがいい、というのは表現としては成立しにくい。なので、2つの「あらわれる」という意味を求めて作っています。
表現するときの心得として、やはり知を基盤としたい。知識を基盤としつつも感性を信じたい。これ、なんか素敵だよね、という気持ちを信じて完成まで持っていく。ここが揺らぐと表現がうまくいかない。言葉で説明できない良さがあれば感性を信じて進んでいく。もう1つが適切さです。先程の眼鏡のコマーシャルがありましたが、どちらが今回は適切なのか、時代に適切なのか、という適切さを忘れないようにしています。
もう1つが世界観を構築すること。世界・・・ブランドということでもあるんですが、そのものの裏側、後ろ側にどんな巨大な思想があって、どんなふるまい、法則が予見できるか。面白いのは世界の世というのは時間を表して、界というのは空間を表します。なので、時間と空間を使って世界を構築していく。構築していったもので印象や記憶を創り出せればと思います。
最後に発想を飛躍させることです。この5つを常に意識していますし、この5つが常に表現に結びつけられれば、と思っています。
表現が創り出すものには、今回、触れられなかった美しさもあり、それも常に意識しています。美というものに入ると話が広がりすぎてしまうが、本来的に表現というものは美につながっていくと思います。
数学者が数式を美しい、建築家、デザイナーなども美しいというが、美しいものをどうとらえるかというと、時間だったり、はかなさだったり、さまざまな要素が組み合わさって美ができている。
ですから、今、すごく論理的に言っているが論理ではとらえられない圧倒的に無視できない美があって、実はそれが表現全体をくるんでいるというふうに捉えてほしい。
お渡ししたプリントは、100年カレンダーというもので1ドットが1日です。一番上に生まれた年を書いていただいて、一番下にプラス100年を書いていただくと、生まれてから死ぬまでの日数がそこにドットとして見えます。人生のなかで、どれくらい日数を消費したかがわかります。
1ドットが自分の100年の中で、ものすごく巨大な面積を示していると私は感じます。1日削れると、ものすごくもったいない、といつも私は思っている。これも目にみえる形にして一目瞭然で何かを伝えるというビジュアライズゼーションの1つです。
これは1626年のレンブラントの絵です。写実主義です。こちらは1875年に描かれた印象派のモネの絵です。輝いている感じがします。印象派というのは、外で描いている絵です。それまでは屋内で、予測で描いたりしていました。外に飛び出して、その瞬間の風や光を捉えた絵の集合体が印象派です。それを可能にしたのが、チューブ式の絵の具です。
いろいろ諸説ありますが、これは1つ大きいのではないでしょうか。技術によって表現が大きく変わる1つのよい例だと思います。表現と技術は密接に関係していて、チューブ絵の具ができることによって印象派が生まれるきっかけになった。
また、写真が生まれることによって写実的な絵を描く意味がなくなった。それによって、認識、認知というものをテーマにしてキュビズム、シュールレアリズムという心の内面を描く動きになっていくわけです。
ビデオ、シルクスクリーンみたいな複製技術は、一回性というものを問うようになる。あくまで西洋美術に限っているのですが、技術と表現は密接に関係している。特にインタラクティブ、デジタルなものは毎日のように技術が変わっているので、技術と密接に関係している中で作っているという意識を持つことが必要だと思います。
現在、急激に技術が変化しているので、この時代に何をビジュアルとしてデザインすべきかと常に自問自答しています。CGというのが時代に合っているときもあるし、プログラムとかインタラクティブなものが時代に合っているときもあります。今、スマートフォンだったり、モバイルのデバイスが全盛のときに、次はどうなるんだろう、と常に意識しています。
これはアメリカでコンピュータサイエンスを学んでいる学生の数と、コンピュータサイエンスが必要とされる分野に関するグラフです。コンピュータサイエンスを学んでいる人が少ないことを表していて、もっとプログラミングを学びましょう、とPRしているものです。多分、日本だともっと極端に学生の数が少ないのではないでしょうか。
実は表現の世界でも、コンピュータのプログラミングを知っている人と知らない人では大きな差があります。知っている人でないと作れないものがたくさんあるし、ものすごく人材が不足していると思います。自分が手にしているチューブ絵の具が何なのか、ということを考えて表現していかなくてはなりません。自分が手にしている今ならではの技術を使って、伝達だったり表現をやりたいと思っています。そこで面白いビデオがあります。
「プログラム技術をマスターする若い人が必要です。ダウンロードされたものを遊ぶのではなくプログラムをしてください。一生懸命勉強しましょう」
オバマ大統領がこう呼びかけているのが印象的だと思います。プログラムの世界で起きていることは情報デザイン最先端だと思います。表現の分野で、その原理を知っている人間を増やしたい、それを使いこなしていく人材を増やしていきたい、という思いもあって、去年から大学で教えています。イメージとしては、日曜大工をするようにプログラミングをする感じです。
あとは自分で何かを工夫するために、書籍のアーカイブやブログを使ったりしています。自分のために、今ある技術を駆使して、自分の知を作っていくことをもっとやっていきたい。
WOWとしては道具のデザインを一所懸命やっていて、アプリケーションデザインを作っています。道具を世の中に提供していくことに、もっと積極的になりたいと思っています。デザインを作るためのデザイン。要するにメタデザインにもっと力を入れないといけない。本当のデザインはツールを使うのではなくて、ツールを作るデザインであるというような意識で、コミュニケーションやビジュアルのデザインに取り組んでいきたいと思っています。
先程、仙台から来たと言いましたが、仙台はWOWラボという名前で活動しています。いろいろな科学者と対話をしたりとか、プログラムやインスタレーションについてWOWの中でも一番、積極的にやっていこうというチームです。
そこで、すごく感じるのは、個人の持っている感性、それにモチベーションが、ものすごく強いものだということです。これがないプロジェクトはうまくいかないことが多い。団体としての強みと個人の強みをうまく合わせたチームであることが重要だと思います。少人数のチームですが、どんどん発信していきたいと思っています。
参考URL
●工場と遊園地
https://www.youtube.com/watch?v=_0hVYp5DPpg
●smartcanvas工場と遊園地
http://smartcanvas.jp/lineup/design/wow.html
●未来派図画工作(20世紀ボヤージ)
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