ほぐれるCX

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【第6回】風呂場のユーレカ!からワーケーションまで

2000年変わらない創造性の科学

Written by Hideaki Shirane

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なぜ最高のアイデアは「考えない時」に生まれるのか?

紀元前3世紀、古代ギリシャの数学者アルキメデスは王冠の真贋を見分ける難題に頭を悩ませていました。連日考え抜いても答えは見つからず、疲れ果てた彼は風呂に入ってリラックスしていました。すると、湯船に体を沈めた瞬間、溢れ出る水を見て「ユーレカ!(分かったぞ!)」と叫んだのです。物体が押しのける水の量で体積を測る「浮力の原理」を発見した瞬間でした。 似たようなことを、あなたも経験したことがありませんか? 「散歩中にふと良いアイデアが浮かんだ」 「音楽を聴いていたら解決策が思いついた」「お風呂でぼーっとしていたら答えが見えた」現代でも私たちは日常的に「ユーレカ!体験」をしています。なぜ最高のアイデアは、必死に考えている時ではなく、リラックスしている時に生まれるのでしょうか?

創造性のパラドックス:「二重の意識構造」

アルキメデスの体験を分析すると、興味深い構造が見えてきます。

表層の意識:風呂に入るというリラックスした身体的行為に没頭
深層の意識:王冠の問題が緩やかに持続
結果:お湯から溢れる水という偶然の刺激で、突然のひらめき

これが「二重の意識構造」です。私たちの脳は、目的的な思考(集中)と無目的な状態(ボンヤリ)を同時に保持できるのです。実は、この現象は1940年にジェームス・W・ヤングが『アイデアのつくり方』で体系化した「インキュベーション(孵化)段階」と同じ構造です。ヤングは、徹底的に情報収集と思考を行った後、いったん問題から完全に離れることで、無意識が働き続け、突然「ユーレカ!」の瞬間が訪れると説明しました。この「寝かせる」プロセスは、まさに二重の意識構造の典型例です。

表層:完全に問題から離れて他のことに没頭
深層:無意識が働き続けている
結果:意図しないタイミングで創造的解決が現れる

脳科学が解明した創造性の秘密

最新の脳科学研究で、この現象の神経基盤が明らかになりました。私たちの脳には3つの重要なネットワークがあるそうです。

Executive Control Network(集中):意図的・目的志向の思考を担当
Default Mode Network(ボンヤリ):無目的・内省的な思考を担当
Salience Network(切り替え):上記2つの切り替えを制御

まず、Executive Control Network(実行制御ネットワーク)は意図的で目的志向の思考を担当し、集中状態での論理的な問題解決に働きます。一方、Default Mode Network(デフォルトモードネットワーク)は、ぼんやりとした無目的な思考や内省的な状態を司っています。そして、Salience Network(顕著性ネットワーク)が、この2つのネットワーク間の切り替えを制御します。

興味深いのは、通常であれば交互に働くこれらの脳ネットワークが、創造的な瞬間には特別な連携を見せるという発見です。つまり、真の創造性は「目的を忘れる」ことではなく、「目的と無目的を同時に保持する脳の状態」にあるのです。ヤングの「孵化」段階も、単なる切り替えではなく、両方のネットワークが微妙にオンライン状態を保つことで機能すると考えられます。

剣道の「間合い」で考えてみる

剣道で相手と向き合っているとき、剣士は二つのことを同時に行っています。一つは相手の動きを注意深く観察し、攻撃のタイミングを計算すること(集中状態)。もう一つは、頭で考えすぎずに体の感覚に任せて自然に反応できる状態を保つこと(無心状態)。熟練した剣士は、相手が動く瞬間に「考えて」から反応するのではなく、まるで相手の動きと一体になったかのように自然に対応します。これが「間」の感覚です。

なぜ現代人は創造的でなくなったのか?

現代社会では、私たちの意識が「目的」に支配されがちです。「効率的であれ」「成果を出せ」「時間を無駄にするな」。こうしたメッセージに囲まれて、私たちのExecutive Control Networkは常に働き続けています。 スマートフォンの通知、締切に追われる日々、「何のためにやるのか」を常に問われる文化。これらすべてが、アルキメデスが体験した「無目的な時間」を奪っています。 真の創造性を取り戻すには、意識的に「目的から自由になる時間」を作り出す必要があります。

身の回りにいる実践者たち

とはいえ、私たちの周りには、意識的・無意識にこの状態を活用している人がたくさんいます。

歩きながら考えたスティーブ・ジョブズ
ジョブズは重要な会議を散歩ミーティングで行いました。歩行のリズムが脳を整え、移り変わる景色が新しい刺激を提供する。身体と心が統合された理想的な創造状態だったのではないでしょうか。

音楽を弾きながら考えたアインシュタイン
アインシュタインは、難しい問題に直面すると、書斎から出てきて音楽を弾き、メモを取って、また書斎に戻っていく、ということをしていたそうです。相対性理論の発見も「音楽が直感の背後にある推進力だった」と語っています。

手をぶらぶらさせて歩く人
私の友人に、アイデアを考える時に手をぶらぶらさせて歩く人がいます。意図的に身体の力を抜くことで、脳の緊張も解放されます。物理的な脱力が精神的な柔軟性を誘発する、東洋武道の「脱力の技法」の現代版です。

自転車に乗って考える人
多くの人が自転車に乗るとアイデアが湧きやすいと語っています。ペダルを踏む一定リズム、適度な認知負荷、環境の変化。自転車は「動的でありながら瞑想的」という独特の状態を作り出す、現代の瞑想法です。

サウナで整う人
サウナでアイデアが湧いたり、問題がクリアになる、という人たちがいます。高熱と冷水で極端なExecutive Control Network、Salience Network、Default Mode Networkを繰り返しているうちに、「整う」=「二重の意識構造」状態になります。サウナ愛好家は、無意識のうちに脳を鍛えているのかもしれません。

ワーケーションやリトリートを正しく設計する

多くの人がワーケーションやリトリートを誤解しています。「自然に囲まれた場所で、普段通り仕事をすれば創造性が高まる」「高速Wi-Fiと洒落た空間があれば十分」。こうした発想は、創造性の科学に照らすと的外れです。

創造性は、単に場所を変えるだけでは生まれません。大切なのは、「二重の意識構造」が偶発的に発動してしまうような、つまり意識せずともその状態に入ってしまうような、環境、身体リズム、人間関係、時間構造までを含めた全体のデザインです。たとえば、あるデザイン会社のリトリートでは、午前中は一切の議題を設けず、全員で薪を割ったり、地元の漁師と漁に出たりするという作業が組まれています。午後になってから自然に始まる対話には、都市の会議室では決して生まれない種類の発想が満ちていたと言います。

ここでは「無意味に見える身体的行為」こそが、思考の深層をゆっくりとかき回し、創造性の発酵装置として機能しているのです。

創造性を引き出す設計
適度な非日常性:都市と切り離され、時間の感覚が少し緩むような空間
多層的な刺激:自然音、他者との偶発的会話、身体のリズム的運動
意図的な「目的のなさ」:何も決まっていない時間・空間に身を預ける

創造性を阻む設計
景色の良い会議室化:場所が変わっても働き方が変わらない
過剰な快適さの追求:快適さの演出が、逆に心身の緊張を高めてしまう
分刻みのタイムテーブル:計画どおり動くことが目的化し、Executive Control Network支配に逆戻り

ワーケーションの真の価値は、「いつもと違う場所で働く」ことではありません。創造性が自然と立ち上がってしまう脳の状態を無意識に引き出せるようにすることです。薪を割るとき、ペダルをこぐとき、波の音を聞いているとき。私たちは、集中していないようでいて、深いところで静かに何かを考えている。そんな「ユーレカ装置」に身を置くことが重要です。

脳のネットワークを鍛える

この「二重の意識構造」を意図的に作り出せるようにするための超簡単なアプローチをご紹介します。

・散歩しながら「歩くことに集中」→「考え事をしながら歩く」→「また歩くことに戻る」
・30分は完全に問題を忘れて好きなことをする→5分だけ軽く思い出す→また30分忘れる
・深く吸いながら「目的を思い出す」、長く吐きながら「目的を手放す」

研究によると、脳のネットワークは鍛えることができ、異なるネットワーク間の切り替え能力も向上させることができるそうです。このような切り替えを意識的に繰り返すことで、目的と無目的を同時に保持する脳の状態を作り出せるようにしていきましょう。

アルキメデスからの贈り物

2000年以上前のアルキメデスから現代のワーケーションまで、人間の創造性の神経基盤は変わっていません。私たちは皆、「風呂場のユーレカ!」を体験できる脳を持っています。重要なのは、創造性を「直接追求」するのではなく、創造性が生まれやすい「状態」や「環境」を意図的に設計すること。

次回、行き詰まった問題があるときは、デスクを離れて散歩してみてください。手をぶらぶらさせながら歩いてみてください。お気に入りの音楽をかけてみてください。 あなたの脳の中で、Executive Control NetworkとDefault Mode Networkが絶妙なダンスを踊り始めるかもしれません。そして突然、「ユーレカ!」の瞬間が訪れるでしょう。

アルキメデスが教えてくれたのは、最高のアイデアは「求めすぎない時」にやってくるということ。現代の脳科学がその理由を解明してくれました。

あとは、あなたが実践するだけです。

 


参考文献
ジェームス・W.ヤング(1988年)『アイデアのつくり方』 竹内均 解説、今井茂雄 訳 阪急コミュニケーションズ
宮﨑敦子(2021年)『聴くだけで作業効率が自然に上がる!「すごい音楽脳」』扶桑社

Written by Hideaki Shirane