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2026.04.28

Blog|Moving Experiencesー優れた瞬間だけでは、優れたジャーニーにはならない



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「引っ越しは本当に大変だ。  大きな“動揺”だよ。 人はみんな動揺する。」
昨年、東京から千葉県へ引っ越したとき、この言葉を思い出した。
 
これは、ロンドンで売買が数珠つなぎに連動する“住み替えの連鎖”を描いた映画 『The Chain』(1984年)に登場する、引っ越し業者の哲学的リーダー、 バンバーの台詞である。

彼は顧客にこう語る。
引っ越しは、人生で三番目にストレスの大きな出来事だと。 死別や離婚に次ぐものだという。

もちろん、それ以上に大きな出来事もあるだろう。 しかし、引っ越しが私たちの心を大きく揺さぶるのは確かだ。
日常のリズムを手放し、混乱を受け入れ、大切な持ち物を見知らぬ他人に託す。
新生活への期待と、煩雑な作業への苛立ちのあいだで、感情は揺れ動く。

まさに “moving experience”(引っ越しであり、心を動かす体験)である。
 

 

競争が激しく、そして「演出」された日本の引っ越し市場

 
業者選びは比較サイトから始めた。全国規模の大手から地域密着型、専門特化型まで、実に多様な事業者が並んでいる。決してコモディティ化された市場ではない。日本の引っ越し会社は、サービスモデルやテクノロジーを積極的に活用し、差別化を図っている。

プロの梱包スタッフを派遣し、食器一枚から丁寧に包む会社もあれば、スマートフォンで室内を撮影して見積もりを行い、価格競争力で勝負する会社もある。

私は三社に、同じ日の訪問見積もりを依頼した。
そこで目にしたのは、まるで銀座の高級百貨店が一日の営業を始める瞬間のような、磨き上げられたサービスの“儀式”だった。 意図され、統制され、そして安心感を与える演出である。

営業担当者(全員男性だった)は時間通りに到着し、靴を脱ぎ、持参したスリッパに履き替え、床に保護マットを敷き、その上にポータブルプリンター付きの鞄を置く。名刺交換の後、部屋ごとに丁寧に家財を確認していく。

まさに「おもてなし」の実践である。 注意深く、儀式的で、礼節を重んじる。

しかし、これは単なる演出ではない。形式的な礼儀、部屋ごとの正確な確認、統一された説明、質の高い資料——それらは意思決定の瞬間に顧客へ安心を与えるために、戦略的に設計された接点である。
 
 
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 サカイ引越センターの戦略的CX


最終的に私は、サカイ引越センターを選んだ。
担当者は競合他社との違いを巧みに示しながら、自社の強みを明確に伝えた。そして何より印象的だったのは、同社の考え方である。

サカイは顧客満足度調査で高い評価を得ていることを誇りにしていた。また「リピート率」を重要な指標として社内で追跡しているという。 次の引っ越しでも選ばれるかどうかを測定しているのである。

顧客満足と業績が結びついていることは明らかだった。私が体験した“磨き上げられた対応”は偶然ではない。戦略的に重視された結果なのである。

さらに同社は、家電や家具の購入を提携先と連携し、引っ越し当日に新居へ届ける仕組みも用意している。
パンフレットはカタログも兼ねていた。

これは単なる物流ではない。「人生の転機」としての引っ越しを理解した設計である。そこには追加需要と収益機会が存在する。
 
 
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決定を伝えた翌朝には梱包資材が届いた。 バックエンドの連携も機能していた。

当日の作業も申し分ない。近隣への丁寧な挨拶、壁や床の保護、落ち着いた作業。

営業も完璧。

作業も問題なし。

では、何が欠けていたのか。
 
 
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企業のプロセスが止まっていても、顧客の時間は止まらない


段ボールに囲まれながら、銀行や保険会社への連絡を進めていた。十日ほど経ったころ、私は気づいた。
サカイから何の連絡もない。
次のステップの案内もない。
 請求書もない。
 正式な契約書も交わしていない。

電話をすると、その場で手続きは完了した。安心した。しかし、それは本来、感じる必要のない安心であったはずだ。

その後、約一か月の沈黙が続いた。

企業のプロセス上は「待ち時間」かもしれない。しかし顧客にとっては違う。
待っている顧客は「非アクティブ」ではない。むしろ感情は活発に動いている。

企業内部では静かな時間でも、顧客の頭の中では不安が生まれ、疑問が膨らみ、新たなニーズが生まれている。
私はその間に冷蔵庫を買い替えようと決めた。しかし連絡したときには遅かった。引っ越し日に合わせることはできなかった。
扉の開きが逆の古い冷蔵庫が、いまも新居のキッチンに立っている。

サカイは、目に見える瞬間を見事にこなした。しかし、感情が大きく揺れるジャーニーの途中で、不安を和らげる機会とアップセルの機会を逃したのである。
 
 

 

 

瞬間からジャーニーへ


企業は通常、営業接点やサービス応対、オペレーションの最適化に力を入れる。しかし、優れたタッチポイントの積み重ねが、自動的に優れたジャーニーを生むわけではない。

顧客ジャーニーとは、企業が関与していない時間も含めた体験全体である。
ジャーニー・マネジメントに本気で取り組む企業は、次の前提に立っている。

・ ジャーニーは社内プロセスと同じではないと理解する
・ 管理されていない時間が感情を増幅させると認識する
・ インタビューや観察を通じて顧客理解を深める必要があると理解する
・ その洞察を組織横断でプロセスに反映させる必要があると認識する
・ 優れた瞬間だけでなく、体験の連続性を設計することが競争優位につながると理解する



 

 

演出は戦略ではない


これは引っ越し業界に限らない。目に見える接点は重要である。
顧客満足度調査も、応対スピードや作業品質、時間厳守などを測定する。

日本企業は、こうした「見える瞬間」を磨き上げることに長けている。
しかし成熟市場において真の優位性を生むのは、顧客ジャーニー全体の感情曲線を設計し、管理することである。企業が関与していない時間に、顧客が何を感じ、何を考え、何を決定しているのかを理解しなければならない。

『いちばんやさしいCX経営の教科書』で白根英昭氏は、CXを戦略的にマネジメントするための五つの能力を提示している。その一つが「デザイン」である。

ここでいうデザインとは、美しさのことではない。顧客理解に基づき、エンド・トゥ・エンドで体験を意図的に形づくることである。

優れた瞬間は良い印象を生む。

 しかし、適切に設計・管理されたジャーニーこそが、競争優位を生み、機会を広げ、長期的なロイヤルティを築くのである。
 

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